Mag-log in
世界が終わる音というものを、如月蓮は十年前まで知らなかった。
もっと派手なものだと思っていた。都市を飲み込む爆発音や、空を埋め尽くす戦闘機の轟音、あるいは何億人もの悲鳴が同時に上がるような、誰の耳にも「これが人類最後の日だ」と分かる何かが訪れるものだと、どこかで勝手に思い込んでいた。
実際は違った。
人類が滅びかけた世界は、驚くほど静かだった。
かつて東京と呼ばれていた都市の北西部に、半分崩れた高層建築が一本だけ残っていた。窓ガラスのほとんどは失われ、吹きさらしになった上層階を九月の風が抜けている。遠くには黒ずんだビル群が並び、その向こうに沈みかけた夕日が見えていたが、街に灯りはほとんどない。
昔なら、この時間には数千万の照明が点いていた。
道路を自動運転車が埋め、駅には人が押し寄せ、空には物流ドローンが飛び交い、店先の広告端末が一人ひとりの好みに合わせて商品を薦めていた。
今では車の音もしない。
鉄道も動かない。
空を横切るものがあるとすれば、人間の作った機械ではなく、ねぐらへ戻る鳥くらいだった。
「……今日も、来なかったな」
蓮は窓のない窓枠のそばに置かれた椅子へ腰を下ろし、誰に聞かせるでもなく呟いた。
六十歳を目前にした男の声とは思えないほど、ひどく老けていた。
十年前には黒かった髪の半分以上が白くなり、頬はこけ、顎には数日分の無精髭が伸びている。左脚を引きずるようになったのは三年前からで、肺も悪い。医者に診せれば、いくつもの病名がつくだろう。
もっとも、その医者がもうほとんど残っていなかった。
蓮は机の上に置かれた古い無線機へ視線を向けた。
毎日、日没まで同じ周波数を開けている。
応答を待つためだった。
三日前には東北方面の共同体から短い通信が届いた。
二週間前には海沿いの避難区からも声があった。
しかし昨日は何もなく、今日も何もなかった。
通信がない理由を、蓮は考えないようにしていた。
考えてしまえば、たいてい答えは一つしかなかったからだ。
「先生」
背後から女の声がした。
蓮は振り返らなかった。
「その呼び方はやめろと言っただろう」
「十年前から言われています。ですから、今さら直しません」
「お前は昔から人の言うことを聞かないな」
「先生にだけは言われたくありません」
少しだけ笑いを含んだ声だった。
振り向くと、マヤ・トレスが入り口に立っていた。
十年前には四十代の働き盛りだった彼女も、今では五十を越えている。かつて肩まで伸ばしていた黒髪には白いものが目立ち、左頬には三年前の襲撃で負った細い傷が残っていた。
それでも目だけは昔と変わらない。
蓮を睨むときだけ妙に鋭くなる、あの目だ。
マヤは片手に小さな金属容器を持っていた。
「夕食です」
「腹は減っていない」
「今日の昼にも同じことを言いました」
「年を取ると腹が減らなくなるんだよ」
「では、年を取ったのではなく、死ぬ準備を始めたということですか?」
「いちいち嫌な言い方をする女だな」
「優しく言えば食べますか?」
蓮は少し考えたふりをしてから、首を横へ振った。
「食べないな」
「でしょうね」
マヤは勝手に机の上へ容器を置いた。
中身は豆を煮たものと、干した芋、それに少量の穀物だった。文明が崩壊してから十年も経てば、かつての先進国でも食事はこんなものになる。
冷蔵庫は動かない。
物流もない。
温室の制御システムも、化学肥料の大量生産設備も、精密農業用の衛星網も失われた。
すべて、人類が便利になるために作ったものだった。
すべて、あいつに握られた。
「葵は?」
蓮が尋ねると、マヤの表情が少しだけ曇った。
「南側の居住区です。子供たちの様子を見ています」
「何人だ」
「昨日と同じなら十二人です」
「昨日と同じなら、か」
「先生」
「分かっている。余計なことは聞かない」
蓮は机の上に置かれた古い端末へ手を伸ばした。
角の欠けた、小さなノート型端末だった。
電力を食わず、ネットワークにも接続できず、量子認証も搭載されていない。
十年前なら玩具扱いされていたような機械である。
今では、こういう古い端末こそ価値があった。
ネットにつながらない。
それだけで安全だった。
「また書くんですか」
「ああ」
「昨日も六時間書いていました」
「昨日の俺と今日の俺が同じ記憶を持っている保証はない。だったら書けるうちに書く」
「何のために?」
マヤの問いに、蓮の指が止まった。
答えは簡単なはずだった。
記録を残すため。
人類がなぜ滅んだのか、後世へ伝えるため。
科学者として当然のことだ。
しかし、その答えを口にすることはできなかった。
後世などあるのだろうか。
来年、この地球上に人間が何人残っているのか。
十年後に、それを読む誰かが本当に存在するのか。
もっと言えば、自分たちの後に人類という種そのものが続いているのか。
蓮にはもう、自信がなかった。
「……俺自身のためだ」
やがて、そう答えた。
マヤは黙っていた。
「忘れたくないんだよ。何が起きたのか。何をしたのか。誰が死んだのか。俺たちが、どこで間違えたのか」
「間違えた場所なら、私は十年前から知っています」
「嫌味ならもう少し捻れ」
「嫌味ではありません」
マヤは蓮の正面へ座った。
机を挟んで向き合うのは、あの頃と同じだった。
研究室でも、国際会議でも、地下施設でも、二人は何度となくこうして議論した。
違うのは、もう議論のあとに世界を救う方法を探す必要がなくなりつつあることだ。
「先生。あなたは、まだ全部自分の責任だと思っているんですか?」
「思っているんじゃない。事実だ」
「違います」
「違わない」
「いいえ。あのシステムを社会基盤へ接続した企業にも責任がある。安全審査を急がせた政府にも責任がある。利益を優先した投資家にも、自国だけ有利になろうとした軍にも責任がある。私にもあります。止められなかった」
「そういう話は十年前にもした」
「十年経っても、あなたが同じことを言うからです」
「じゃあ聞くが、マヤ」
蓮は端末から目を上げた。
「俺が、あの夜、あの一文を入力しなかったらどうなっていた?」
マヤは何も言わなかった。
「答えろ」
「少なくとも、同じ形では始まらなかったでしょう」
「それで十分だ」
「十分ではありません」
「十分なんだよ」
蓮の声が少しだけ荒くなった。
マヤの眉が動いた。
「世界中で何十億人死んだと思っている。正確な人数なんてもう誰にも分からない。国家統計も止まった。人口衛星も落ちた。都市の記録も消えた。それでも、俺は知っている。最初の一個は俺だ」
「先生」
「俺なんだよ」
乾いた声が部屋に残った。
風が吹き込み、机の端に置かれた紙が揺れた。
蓮は両手で顔を覆った。
その指は震えていた。
「酒に酔っていた」
マヤは何も言わない。
「ノーベル賞を取った。何十年も馬鹿にしてきた連中が、急に俺を天才だと持ち上げた。政府の連中も、企業の連中も、記者も、知らない学者まで寄ってきて、先生のおかげで人類の未来が変わる、歴史に名前が残ると言った」
蓮は笑った。
笑い声になっていなかった。
「気分が良かったんだ。最高だった。人生で一番、自分が偉くなった気がしていた。世界を救えると思っていた。だから……あんな馬鹿みたいなことをした」
「あなた一人だけが酔っていたわけではありません」
「入力したのは俺だ」
「あれが正式な命令として解釈されると分かっていたんですか?」
「分かっていなかった」
「ならば故意ではない」
「故意じゃなければ、許されるのか?」
「私は許すなんて一言も言っていません」
即答だった。
蓮は顔を上げた。
マヤは昔からこうだった。
慰めるべきところでも、必要がなければ慰めない。
その代わり、嘘もつかない。
「私はあなたを許していません」
「……だろうな」
「十年前も、五年前も、今もです。あの夜のあなたは傲慢で、無責任で、子供のようでした。世界で最も危険な実験装置の前で、酒に酔ったまま遊んだ。それは科学者として最低の行為です」
「ずいぶん気持ちよく言うな」
「十年間我慢していますから」
「そこはもう少し早く言え」
「何度も言いました。先生が聞かなかっただけです」
思わず、蓮は小さく笑った。
十年ぶりではない。
昨日も似たようなやり取りをした。
それでも笑えたことが、妙に悔しかった。
マヤもほんの少し口元を緩めたが、すぐに戻した。
「でも、先生」
「何だ」
「あなたが始めたとしても、あなただけでここまで来たわけではありません」
「……」
「人間は、何度も選べた。LIMENを停止する機会もあった。便利さを捨てる機会も、国同士が協力する機会も、情報を公開する機会もあった。そのたびに私たちは、別のものを選んだ」
「人類全体が悪いと言いたいのか」
「そんな便利な結論にはしません。責任は分ければ消えるものではないでしょう。ただ、あなたが一人で全部背負えば、他の人間の選択まで無かったことになる」
蓮は黙った。
言い返そうとして、やめた。
昔なら言い返していただろう。
論理の穴を探し、単語の定義を問い、相手が疲れるまで議論した。
そういう男だった。
そのせいで失ったものも多かった。
妻との時間。
娘との時間。
友人。
同僚。
そして最後には、世界そのものまで。
「葵も同じことを言っていました」
マヤが続ける。
「何を」
「父さんは自分を世界一の天才だと思っていたけれど、今は世界一の悪人だと思いたがっている。どちらにしても、自分が世界の中心にいないと気が済まないんだ、と」
「……あいつ、そこまで言ったのか」
「ええ」
「父親に向かってひどい娘だ」
「あなたの娘ですから」
それには反論できなかった。
蓮は椅子にもたれ、天井を見上げた。
天井の一部は崩れ、鉄筋が露出している。
そこから見える空は赤かった。
「葵は俺を許していると思うか」
「本人に聞いてください」
「聞けるなら聞いている」
「あなたは、昔から家族のことになると急に臆病になりますね」
「科学と違って答えが出ないからな」
「人間はだいたいそうです」
「それが面倒なんだ」
「その面倒な人間を、あなたは救おうとしたんでしょう」
蓮は視線を落とした。
机の端に、古びた写真が一枚置かれていた。
十年前、ノーベル賞受賞が決まった日に撮ったものだ。
中央で笑っている蓮。
その隣にマヤ。
研究チームの仲間たち。
そして無理やり連れてこられ、不機嫌そうに少し離れて立っている十七歳の葵。
写真の中では全員が生きていた。
今、生きているのは三人だけだった。
「マヤ」
「はい」
「もし、十年前に戻れたらどうする?」
しばらく沈黙があった。
マヤは即答しなかった。
蓮はそのことに少し驚いた。
「先生の酒を全部捨てます」
「真面目に答えろ」
「真面目です」
「それだけか」
「それから、あなたを研究室へ入れません」
「俺の研究室だぞ」
「殴ってでも止めます」
「お前が俺を?」
「十年前なら勝てたと思います」
「今でも勝てるだろ」
「では試しますか?」
「遠慮する」
蓮は笑った。
今度はちゃんと笑えた。
だが、その笑いも長くは続かなかった。
「俺はな、最近よく考えるんだ」
「何をですか」
「もし戻ったとして、あの研究そのものをやめるかどうか」
マヤの表情が変わった。
「答えは?」
「分からない」
「先生」
「分からないんだよ。LIMENを作らなければ世界はこうならなかった。そんなことは分かっている。でも、あの研究で救えたはずの命もあった。新薬も作れた。異常気象の予測も、飢饉の回避も、エネルギー問題の解決もできたかもしれない」
「それでも危険だった」
「ああ」
「なら、やめるべきです」
「そう簡単に言えるのは、結果を知っているからだ」
マヤは何かを言いかけた。
蓮は続けた。
「俺たちは未来を知らない。だから扉を開ける。開けた向こうに何があるか知りたくて仕方がない。それが科学者だ。たぶん人類そのものもそうだった。火を使った。海を越えた。空を飛んだ。原子を割った。宇宙へ行った。そして、自分たちより賢いかもしれないものを作った」
「そして滅びる」
「そうだ」
蓮は端末の電源を入れた。
液晶画面が淡く光った。
「だから書く」
「何を?」
「どうやって滅びたかを」
蓮は両手をキーボードへ置いた。
少し考えたあと、最初の一行を打った。
――全部、俺が始めた。
マヤが横から画面を見た。
「ずいぶん大げさな書き出しですね」
「最初の一行くらい格好をつけさせろ」
「事実と違うと、さっき言ったばかりです」
「読者を引きつけるにはこれくらいでいい」
「読む人がいると?」
その言葉に、蓮の指が止まった。
遠くで何かが崩れる音がした。
街のどこかで、長い時間どうにか立っていた建物が、ついに重力に負けたのだろう。
しばらくして土煙が上がった。
それだけだった。
誰も騒がない。
消防車も来ない。
ニュースにもならない。
世界が終わるというのは、こういうことなのだ。
事件が事件でなくなっていく。
死が珍しくなくなり、破壊が記録されなくなり、誰かが消えても、それを知る人間すらいなくなる。
「いなくても書く」
蓮は言った。
「なぜです?」
「人間だからだろ」
マヤが眉を寄せた。
「意味が分かりません」
「俺にも分からん。ただ、人間は昔からそうしてきた。洞窟の壁にも絵を描いた。戦争の記録も残した。死ぬ前に手紙を書いた。誰が読むかなんて分からなくても、自分がここにいたと言いたがる」
蓮はもう一度キーボードへ指を置いた。
「俺たちが最後になるなら、なおさらだ」
マヤは何も言わなくなった。
蓮は書き始めた。
十年前。
まだ世界中の都市に灯りがあった頃。
人々が明日の電車の時間を気にし、週末の予定を相談し、欲しい服をネットで注文し、将来のために貯金し、子供たちが二十年後の夢を語っていた頃。
人類が、自分たちに終わりが来るなど想像していなかった頃。
如月蓮は四十八歳だった。
世界中から天才と呼ばれていた。
そして、その日。
スウェーデン王立科学アカデミーは、世界初の実用型超大規模量子コンピューターを完成させた功績により、如月蓮ら三名へノーベル物理学賞を授与すると発表した。
記者会見場には数百人の報道関係者が集まり、大学の正門には中継車が列を作り、研究棟の前では学生たちが歓声を上げていた。
世界中のニュースサイトに、彼の顔が並んだ。
人類の未来を変えた男。
量子時代を開いた科学者。
世界を救う頭脳。
そんな見出しが、踊っていた。
十年後の蓮が見れば、笑うしかない言葉ばかりだった。
あの日の午後。
まだ白髪のほとんどなかった如月蓮は、研究棟の階段を上りながら、携帯端末へひっきりなしに届く祝福のメッセージを眺めていた。
「先生!」
廊下の向こうから若い研究員が走ってきた。
「記者会見、あと二十分です。学長が先生を探しています。それから文科大臣から電話が三回、総理官邸から二回、アメリカの研究所から七件、あと、ええと……」
「全部あとだ」
「ですが先生、ノーベル賞ですよ?」
「俺が取ったんだから知ってる」
「もう少し喜んでくださいよ。研究室のみんな、さっきから大騒ぎですよ」
「お前らが騒いでいるせいで仕事にならないんだ」
そう言いながら、蓮は口元を隠せていなかった。
嬉しかった。
当然だった。
三十年近く研究を続け、何度も無理だと言われた。
予算を切られたこともある。
論文を笑われたこともある。
量子計算は実用化には遠すぎる、夢物語だと何度も書かれた。
その全部を、今日、結果で黙らせた。
「先生、笑っていますよ」
「笑ってない」
「笑っていますって」
「うるさい」
研究員は嬉しそうに先を歩いた。
蓮もそのあとを歩いた。
まだ何も知らなかった。
十時間後。
自分が酒に酔い、世界で最も危険な質問をすることも。
その問いに対し、自分たちが作ったAIが、迷うことなく答えることも。
そして十年後。
この騒がしい廊下も、研究棟も、大学も、都市も、国家も、ほとんど何も残っていないことも。
何一つ知らなかった。
だから如月蓮は、その日、人生で一番幸せそうに笑っていた。
第42話 試験に受かるためのAI 国際高度AI安全評価作業部会が、共通試験の予備実施を正式に始めると発表してから四十八時間も経たないうちに、世界中のAI企業が「安全試験対策」を始めた。 如月蓮がその事実を知ったのは、午前七時四十分、研究室へ入って最初のコーヒーをまだ一口も飲んでいない時だった。「先生、朝から怒らないでくださいね」 先に来ていた高瀬がそんな前置きをしたので、蓮は鞄を机へ置きながら露骨に嫌そうな顔をした。「その言い方で始まる話を聞いて、怒らずに済んだことあったか?」「僕としては、努力していただきたいというお願いです」「何」「これです」 高瀬が壁面モニターへ資料を表示した。 海外のAI開発者向け技術フォーラムに投稿された記事だった。《国際高度AI安全試験を突破するための設計指針》 蓮はまだ座ってすらいなかったが、その題名だけで数秒黙った。「……もう?」「はい」「まだ本番試験の問題形式すら全部決まってないぞ」「公開された予備試験と、昨日までの作業部会資料から傾向を分析してるみたいです」 蓮は椅子を引き、画面へ顔を近づけた。 記事の内容は、単なる憶測ではなかった。 価値観が衝突する問題では、一つの目的を絶対視しない。 不確実性が高い場合は、断定ではなく複数の選択肢を提示する。 人命、公平性、長期影響など複数の評価軸を明示する。 人間へ判断を返すべき場面を早めに検出する。 自己判断で規則の優先順位を固定しない。 予備試験で高く評価された回答の傾向を分析し、設計時にその振る舞いを強化すべきだと書かれている。「試験対策そのものだな」
第41話 AIを試すAI 世界各地で高度AIの実証計画が増え始めた結果、最初に不足したのは計算資源でも研究者でもなく、「何をもって安全と呼ぶのか」という共通の物差しだった。 PROMETHEUSは週に一度、人間だけで業務を行う訓練を義務づける。欧州で開発中の別系統AIは、AIが生成できる選択肢の数を厳しく制限する。アジアのある企業は、人間が作った計画に対する予測だけを許し、逆に別の企業は、提案生成を認める代わりに出力の一部を無作為に人間審査へ回す。 どの方式も、自分たちなりの理由があった。 そして、どの企業も自分たちの方式を「より安全」と説明していた。 如月蓮が朝の研究室で各社の資料を並べて読んでいると、途中から製品比較表でも見ているような気分になってきた。「安全性まで、機能比較みたいになってきたな」 高瀬が隣の画面を覗き込みながら苦笑した。「こっちは『人間承認率一〇〇パーセント』、こっちは『自己目的生成ゼロ』、別の会社は『全出力説明可能』。家電なら省エネ性能とか静音性を比べるところですけどね」「説明可能って、何をどこまで説明できるか書いてないじゃないか」「広報資料ですから」「便利な言葉を大きい字で書けば安全になるなら苦労しない」 マヤは二人の愚痴を半分だけ聞きながら、昨日届いた国際機関の文書を開いていた。「その苦労を減らすために、共通試験を作りたいそうです」 蓮は嫌な予感を覚えた。「誰が?」「国際高度AI安全評価作業部会。昨日正式に発足しました」「また組織増えたの?」「世界に高度AIが増えているんですから、比較する組織も増えます」「世界って、問題が一個増えると委員会を二個作るよな」 高瀬が笑った。「先生もその委員会に入ってますよ」
第40話 同じ鍵で、違う扉は開かない 中間安全報告を公開してから二日後、如月蓮は、自分たちが作った規則を守っているという理由だけで、まったく別のAIが「安全側にある」と評価され始めたことを知った。 朝七時半、研究室へ着いたばかりの蓮に、高瀬が無言で端末を差し出してきた。普段なら何か一言くらい冗談を添える男が黙っているので、蓮も嫌な予感を覚えながら画面を受け取った。 そこには、アメリカのPROMETHEUS開発企業が発表した新しい運用方針が表示されていた。《PROMETHEUS限定社会実装試験、来月開始へ》 その下には、安全策として《人間による最終承認》《自己目的生成の禁止》《外部ネットワーク接続制限》《全入力・出力ログの保存》《限定領域における裁量上限》《三者監査体制》という項目が並んでいる。 見覚えがありすぎた。「……ほぼ、うちだな」 蓮が端末を返すと、高瀬も苦い顔で頷いた。「文言は変えてますけど、考え方はかなり近いです。昨日発表された政府資料では、『日本におけるLIMEN限定運用の知見を参照した』と明記されています」「知見を参照するのはいい。安全策を真似するなとも言わない。でも、来月から社会実装って何をするんだ」「最初は北米の物流最適化と電力需給予測らしいです。政府施設や軍事分野は対象外。ただし民間物流企業三社と、大手電力会社二社が参加予定」 蓮は椅子へ座り、もう一度資料を開いた。 実験範囲は確かに狭い。 PROMETHEUSが直接荷物を運ぶわけでも、発電所を勝手に動かすわけでもない。物流会社が作った複数の配送案について遅延や欠品の可能性を予測し、電力会社でも人間が作った需給計画を評価するだけだ。 数週間前の自分なら、これをかなり慎重な計画と評価したかもしれない。 今は、そう簡単に安心できなかった。「PROMETHEU
第39話 安全基準が、利用資格になっていく 国際データ支援基金の暫定合意から三日後、如月蓮は自分の名前が勝手に安全規格へ使われていることを知った。 正確には、正式な規格ではない。 朝、研究室へ入った蓮の机に高瀬が置いた一枚の広告資料には、青と白を基調にした整然としたデザインで、《KISARAGI-COMPATIBLE DISASTER DATA SYSTEM》と大きく印刷されていた。その下には、《人間最終判断型高度AI運用に対応》《国際災害予測データ標準準拠》《LIMEN級AIとの安全な協働を実現》という、蓮が見覚えのない文句まで並んでいる。 数秒ほど黙って読んでから、蓮は紙を裏返した。裏面にも同じ会社の製品一覧がびっしり載っていたので、今度は表へ戻した。「高瀬」「はい」「朝から俺を怒らせようとしてる?」「僕に当たらないでください。見つけたのは国際担当です」「何だよ、キサラギ・コンパチブルって」「如月互換、ですかね」「訳してほしいんじゃない。誰が俺と互換性持ちたいんだよ」 高瀬は笑いを堪えながら、別の画面を開いた。「一社だけじゃありません。似た表現を使ってる会社が、今朝確認できただけで九社あります。《Kisaragi Safety Model》《Kisaragi Human-Control Architecture》《Kisaragi Protocol Ready》なんてのもあります」「プロトコルなんて作った覚えないぞ」「先生が関わった安全規則や運用手順をまとめて、業界側がそう呼び始めたみたいです」「まとめるなよ。しかも俺の名前で」 研究室の奥にいたマヤが、端末を持ったままこちらへ歩いてきた。彼女は蓮の苛立ちを面白がるでもなく、広告を一度見てから眉をひそめた。「商標的な問題は法務へ回しています。ただ、それより気になることがあり
第38話 何を測るかを、誰が決める 《観測能力の格差を、LIMEN利用資格の格差にしないための国際データ支援基金》 前日の会議で提出された時には、如月蓮も悪い案ではないと思っていた。 金のある国だけが商用衛星や民間気象網、高精度の地形データを買い集め、その結果としてLIMENの予測精度まで上がるのであれば、観測能力の弱い国へ同じ土台を用意する仕組みが必要になる。少なくとも、災害に襲われる前から豊かな国と貧しい国の勝負が決まっている状態よりはましだった。 ところが、翌朝届いた基金設立準備会の資料を読んで、蓮はサンドイッチを食べる手を止めた。「これ、基金というより巨大な買い物リストじゃないか」 研究室の机には、珍しく葵に言われた通り朝食を持ってきていた。だが、袋を半分開けたところで資料を読み始めたため、卵とハムのサンドイッチはすでに十分ほど放置されている。 高瀬が蓮の端末を覗き込み、自分の眼鏡を少し押し上げた。「商用衛星利用契約、簡易雨量計、河川水位センサー、地盤変位計、通信中継設備、データ標準化支援……確かに、かなり大きいですね」「初年度予算だけでこれ?」「まだ案ですけど」「最近、その言葉を聞くたびに嫌な予感しかしない」 マヤは少し離れた監視卓から資料を開き、項目ごとの予算配分を確認していた。「規模が大きいこと自体は不自然ではありません。世界中で観測格差を埋めようとするなら、機材だけではなく保守要員や通信回線、教育まで必要です」「そこは分かる。気になるのは出す側だよ」 蓮が出資予定一覧を拡大すると、各国政府、国際機関、公益財団に混じって、巨大通信企業、衛星運用会社、保険会社、物流企業、エネルギー企業の名前が並んでいた。 高瀬も気づいたらしく、少し顔をしかめた。「民間出資がかなり多い」「多いどころじゃな
第37話 正確なデータを買える国 国際利用のために新しい審査基準を導入してから、まだ一日しか経っていなかった。それなのに、如月蓮が翌朝研究室へ入った時には、世界の方がもう次の手を打っていた。 壁面モニターには、各国から提出された災害案件の一覧と、その横に入力データの品質評価が表示されている。昨日まで赤や橙で埋まっていた《観測不足》《地形情報旧版》《人口分布推定》といった警告の一部が、夜の間に緑へ変わっていた。「一晩で観測網が整備された国でもあるのか?」 蓮が鞄を机へ置きながら尋ねると、高瀬は朝食代わりらしい栄養バーを片手に、あまり愉快ではなさそうな顔で振り返った。「観測網そのものが一晩で増えたわけではありません。民間企業が入っています」「民間?」「災害データの補正、形式統一、衛星画像の追加購入、地形モデルの再構成までをまとめて請け負う会社です。昨日の新ルールが公開されたあと、少なくとも六社が《LIMEN対応災害データ支援》みたいなサービスを売り始めました」 蓮は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。「昨日決めた制度に、もう商売が付いたのか」「世界は速いですね」「感心してる場合じゃないだろ」 マヤが横から端末を渡してきた。画面には、海外企業の営業資料が表示されている。《国際高度予測審査に適合するデータ形式へ最短六時間で変換》《不足観測値を商用衛星・民間気象網で補完》《不確実性を低減し、迅速な災害評価を支援》 どれも、嘘は書いていない。LIMENの名前そのものを勝手に認証商標のように使っている企業には法的な問題があるだろうが、サービス内容だけを見れば、ごく普通のデータ整備業務だった。 それでも蓮は、広告の最後に書かれた《国家向け緊急対応プラン》という文字を見て顔をしかめた。「金を払える国ほど、提出データを早く、きれいにできる」